聴能形成−音響設計技術者に求められる「音の感性」を養成する教育プログラム−

 

音響設計技術者に求められる「音の感性」

 

 音に関するさまざまな仕事に従事するためには,まず,「音の違いを聴き分ける能力」を持っていなければならない。音の違いに気がつく。それが,最初のステップである。

  しかし,それだけでは十分ではない。音の違いを「物理的特徴と関連づけて表現できる能力」を身につけなければならない。音響設計技術者の世界では,音の物理的特徴を表すために,さまざまな専門用語が用いられる。音響設計技術者は,音の違いを,音響の専門用語を使って適切に表現できなければならない。

  さらには,「音の違いをイメージできる能力」を修得する必要がある。音響設計技術者音は,音響の専門用語で表現された仕様書や設計案をみて,音が正確にイメージできなければならない。また,音響機器を操作するような場合には,操作によって音がどんな風に変わるのかをイメージできることが求められる。

  このように,聴能形成は,音に対する感性を音に対する知識と対応づけるトレーニングと言える。聴能形成を通して,学生は,音を聴く態度を修得し,物理的特徴と関連させた音の記憶を蓄えていく。聴能形成は,聴「脳」形成でもある。

 聴能形成は,九州芸術工科大学(現在は,九州大学芸術工学部)音響設計学科で開発され,現在も授業の一環として実施されている。

 

実際のカリキュラム

 

 聴能形成の教育は,実際には,「聴能形成T」「聴能形成U」という名前で,カリキュラムに組み込まれている。特に,「聴能形成T」は,1年生にとって,大学に入って初めて受講する音響の専門課目になる。彼らは,この授業を受けにきて,音響設計学科の一員になったことを実感する。それは,彼らが音むすび響屋としての第一歩を踏み出したことを意味する。図1に,授業の様子を示す。

 

聴能形成T

 聴能形成Tは,訓練の導入部として,音の違いの弁別訓練から開始する。「高さの弁別訓練」では,周波数の異なる純音のペアを学生に提示し,どちらの音が高いのかを答えさせる。音の高さ以外にも,「音の大きさ」「音色(スペクトル)」に関する弁別訓練を行っている。これらは,音の3要素と言われ,音のきこえの側面において,最も基本的な性質である。このような訓練は,音の違いに対する感受性を高めることに主眼をおいたものである。

 このような訓練を数回繰り返した後,音の識別訓練に移行する。音の識別訓練では,音の違いに気づくだけでなく,その違いを生じさせている音響特性が認識できるような能力を養成する。

 聴能形成Tでは,最も基本的な音の物理的性質である,周波数,音圧レベル,スペクトルについての識別訓練を行う。このような訓練を通して,音響に関する最も基本的な物理的性質に対する「勘」を養うのである。

 識別訓練では,訓練用音源をひと通り学生に聴かせ,この間に音の特徴を憶えさせた後に,訓練を行う。

 周波数(Hz:ヘルツ)に対する「勘」を養うために,「純音の周波数の識別訓練」を行っている。訓練では,1252505001k2k4k8kHzの純音を呈示し,学生は,その周波数を判定する。各音はかなり特徴のある音色をしており,学生はすぐその特徴を憶える。この課題を通して,周波数が音の高さと音色を規定する最も基礎的な物理的性質であることを,学生に理解させることができる。同時期に,バンドノイズを音源として,中心周波数を判定させる訓練も行っている。両課題を通して,学生は,離散スペクトルと連続スペクトルの音色の違いも,理解することができる。

 「音圧レベル差の判定訓練」は,音の大きさの違いを,音の物理的な強さの差と対応できる能力を養うためのものである。一般に,音の強さの単位としては「デシベル(dB)」が用いられる。騒音の環境基準,防音壁の遮音性能,聴覚障害の程度など,音響に関する多くの指標が,「dB」を単位として規定されている。「dB」という単位に対する「勘」を養っておくことは,音響屋としては欠かせない。

 この訓練では,基準音(音楽再生音の一部等)と基準音を減衰させた音を対提示して,何デシベル低下したかを用意したカテゴリで答える。カテゴリは,10dB刻み,5dB刻み,2dB刻みのものがある。刻み幅が小さいほど,難しい課題となる。

 スペクトルに関する課題の一つは,「周波数特性の山づけ(周波数)判定訓練」と呼んでいるものだ。この訓練では,音楽再生音の一部をデジタル・フィルタを使って,特定の周波数帯域を強調した音源を用いる。聴能形成Tでは,オクターブ間隔の周波数帯域を10dB増幅させる。

 学生は,元の音と比較することにより,どの周波数帯域が増幅させられたのかを判定する。このような訓練を通して,音響再生系の特性の違いが音色にどのように影響するのかを実感するとともに,各周波数帯の特徴を記憶する。

 さらに,スペクトルに関しては,調波複合音の成分数判定,スペクトル・エンベロープの傾き判定訓練といった課題がある。これらは,より直接的に,スペクトルと音色の対応関係を実感できる課題である。

 調波複合音の成分数判定訓練では,コンピュータによる合成音を聴いて,その音がいくつの成分で構成されているのかを判定する。スペクトル・エンベロープの傾き判定訓練は,スペクトルの傾きと音色の対応関係を修得する課題である。

 聴能形成Tでは,入学直後の学生を相手にしていることもあり,訓練と平行して,音に対する基礎知識に関する講義や理解を助けるデモンストレーションを行っている。特に,シンクロスコープ,スペクトル・アナライザ,騒音計等を用いて,音の物理的な特徴を視覚的に理解させることは,訓練の意義を理解させるのに効果的である。

 

聴能形成U

 聴能形成Uでは,周波数特性の山づけ判定訓練の上級コースとして,ある帯域を6dB上昇させた場合の訓練を行っている。さらに,ある帯域以上,以下をカットしたときの遮断周波数の判定訓練も行っている。訓練と平行して,山づけを施した音声などの信号を聴かせる等のデモンストレーションも実施している。これらの訓練やデモンストレーションを通して,学生は,スペクトル形状ときこえの関係の理解を深めて行く。

 音の大きさに関しては,音楽中のあるパートだけ音圧レベルを上昇または下降させて,そのレベル差を判定するといった訓練も用意されている。この訓練は,ミキシングの現場のような,実際の状況に近い条件での訓練ということになる。

 さらに,聴能形成Uでは,音楽を用いた周波数特性の傾きの識別訓練,二つのパート間に生ずる時間ずれの識別訓練を行っている。

 聴能形成Uでは,他に,合成音による残響時間の判定,純正調と平均率の弁別,歪率の判定などの訓練を行っている。残響時間については,実際のホールのインパルス応答を,音楽ドライソースに畳み込んだ音源を使った音を用いた訓練も行っている。

 聴能形成Uは,少しは専門科目も履修した2年生に対して実施してることもあり,より実践的な内容になっている。

 

聴能形成訓練システム

 

 聴能形成の授業では,様々な訓練用音源の作成や学生の回答を集計するために専用のシステムを使っている。聴能形成訓練用システムとしては,技術の進歩にあわせて何回か更新してきたが,現在のシステムは2000年度から利用しているものである。

 このシステムは,ホスト・コンピュータと携帯情報端末(PDA)Palmによって構成される。ホスト・コンピュータは,訓練用音源の提示,学生の応答の集計を行う。訓練用音源は,ホスト・コンピュータのハードディスクに貯えられ,訓練に応じて教室(音響心理実験室)前面のスピーカより提示される。学生は,この音を聴いて,Palmを利用して応答する。各Palmは,ホスト・コンピュータからの制御により,画面の切り替えや学生の応答データの送信を行う。図2に応答用Palmを示す。

 応答装置としてPalmを用いているのは,安価な市販品である,故障時の対応が容易,メッセージを表示できる,コンパクトで場所をとらない,騒音を出さない,システムの開発が容易などの理由による。現在,50台のPalmがホスト・コンピュータとシリアル通信接続されている。

 実際の訓練では,訓練項目に応じて「高い」「低い」(高さの弁別),「-10dB」「-20dB」等(音圧レベル差の識別),「125Hz」「500Hz」等(周波数特性の山付け)といった回答パターン(仮想ボタン)をPalmの画面上に表示し,学生は,表示された画面上の仮想ボタンを専用ペンで軽くタッチする。表示された回答カテゴリを直接選択するこの方式は,銀行のATMを操作するような感じで,使い心地のよいインターフェースになっている。

 コンピュータは得られた回答を集計すると同時に,正当であれば「○」,誤答であれば「×」のフィードバックを学生に与える(惜しい場合に「△」を表示する場合もある)。同時に,正解カテゴリを画面上に表示する(意図的に正解を表示しない場合もある)。訓練の最後には個々の学生の正答率を画面に表示し,学生は自分の達成度を知ることができる。

 学生は,このような方式の訓練を,クイズ感覚で楽しんでいる。特に,初期の段階では個々の回答に対する「○」「×」に一喜一憂する。ただし,訓練中あんまり騒がしいと訓練の妨げになるので,訓練と訓練の間に「お喋りタイム」を設けて,この間に互いの成果を披露(自慢)しあってもらう。一つの訓練では,10から50の回答が求められる(訓練の種類,訓練用音源の長さによって異なる)。

  集計したデータにより,訓練の達成度,難易度等を検討し,今後の訓練計画に役立てる。

 本システムは,九州芸術工科大学と日東紡音響エンジニアリングで共同開発したものである。

 

さらに聴能形成を知りたい方へ(著書等紹介)

 

 聴能形成を巡るさまざまなアプローチを集大成した形で、「音の感性を育てる−聴能形成の理論と実際−」(岩宮眞一郎、大橋心耳編、音楽之友社、1996)が出版されている。この本には、CDが付属していて、実際の訓練が体験できる。ただし,残念ながら絶版になってしまった。

 「音響設計学入門−音、音楽、テクノロジー−」(九州芸術工科大学音響設計学科編、九州大学出版会、2000)でも、一章を聴能形成の紹介にあてた。

  日東紡音響エンジニアリングでは、筆者らと共同で、個人がパソコンを用いて聴能形成ができるシステムを開発した。このシステムは、「真耳パーソナル・エディション」と命名され、CD-ROMの形で供給されている。

 「音の百科事典」(丸善,2006)には,「聴能形成」の項目があり,解説がなされている。


 

テキスト ボックス: 図1 授業の様子
テキスト ボックス: 図2 応答用Palm